Kの独白 日常ジャーナル

気付いた僕のこれから

見て見ぬふりをされたゴミ、1週間。

ある国ではごみを捨てるとかなりの罰金を支払わないといけないそうです。

 

今回はゴミ捨てについて話そうと思います。

 

この話をしようと思ったのはある出来事がきっかけになっていて、まずはそのことを話すことにします。

 

出来事があったのは丁度、一週間前でした。

僕はマンションに住んでいて、階数は結構高いほうだと思います。

なので、エレベーターを使用して僕が住む一室に向かうことになるんです。

僕が住む一室にエレベーターが到着して扉があいたので出ようとすると足元にポケモンカードが封入されていたであろう残骸が落ちていたのです。

 

「ああ、子どもが落としたんだろうな」

 

と思いましたが、僕が住むマンションは単身者向けですのでおそらく子どもは住んでいないのです。

ということは大人が落としたことになります。

 

そして僕の部屋がある階に存在するということは、おそらく外部から持ち込まれたものではなく、この階で落とされたものであろうと推測できます。

 

僕は性格があまり一般的ではないので、実験をしてみようと思ったのです。

 

この階、つまりは僕を含めて10人いるかいないかですが、顔を認識しているのでどんな人が拾うかを考えてみました。

 

ああ、あの女の子は優しそうだから拾うだろうななんて考えていたら、1週間が経過しました。

 

昨日の夜に散歩をするついでにそのポケモンカードのゴミを確認しに向かいました、するとまだそこに存在したんです。

 

ああ、汚い、汚すぎる、地獄に落ちろと思いました。

同時に悲しくなりました、こんな僕がゴミを最終的に拾うことになるだなんて予想もしてなかったというとウソになります。

 

拾わないだろうなと思っていました、誰かが、自分ではない誰かが拾うだろうと、もしくはそんなことすら考えていないでしょうね。

 

僕が神であればこんな世界ぶち壊します。

 

僕はかなり自尊心がある反面、とても臆病で自信がございません。

ですので、僕が一般的にいいことを他の人よりしていることが気持ち悪くて仕方がないわけです。

 

あの、見て見ぬふりをされたゴミはどんな気持ちだったんでしょうね。

 

少なくとも、見て見ぬふりをしたやつらよりはきれいな心を持っていると思います。

 

 

 

 

 

 

 

読了、感想。

図書館に訪れることが最近は増えてきた。

 

図書館では学生がよく学習をしていて統一された雰囲気があってとてもいい感じがあった。

 

何時間か学習をしてると体が凝ってくるので蔵書をいくつか見て回るようにしている。

少しくらいうろついても何ら不思議なことではないだろう。

 

最近手にした本は、「ママが必ず知っておきたい! 子どもに言ってはいけない 55の言葉」と、「オール1の落ちこぼれ、教師になる」の二冊です。

 

ママが必ず知っておきたいというのは多分X(旧ツイッター)では炎上するような題名ですよね、ですがこの本を読むような気位の高い人はXなど使用しておらずこの本が炎上に巻き込まれるようなことはないと思います。

 

オール1の落ちこぼれ、教師になるという本は昨日読了いたしまして感想を言おうと思います。

 

その前に、著作権違反に該当しないようにしないといけませんのでここにどうすれば使用しても構わないのかを考えていきます。

 

1.他人の著作物を引用する必然性があること。
2.かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。
3.自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。
4.出所の明示がなされていること。(第48条)

 

上記を確認した感じ問題はないように感じます。

 

一応、リンクを載せておきます。

https://www.bing.com/ck/a?!&&p=2181103363536199JmltdHM9MTcxNjk0MDgwMCZpZ3VpZD0zYzY1MDgzNi1lOWUwLTY0OGQtMzMyYi0xYjQ1ZThjZDY1MjYmaW5zaWQ9NTE5OA&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=3c650836-e9e0-648d-332b-1b45e8cd6526&psq=%e3%83%9e%e3%83%9e%e3%81%8c%e5%bf%85%e3%81%9a%e7%9f%a5%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%8a%e3%81%8d%e3%81%9f%e3%81%84%e3%80%80%e3%81%84%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%af%e3%81%84%e3%81%91%e3%81%aa%e3%81%84&u=a1aHR0cHM6Ly93d3cubWF0ZXMtcHVibGlzaGluZy5jby5qcC9hcmNoaXZlcy8xODIz&ntb=1

 

https://www.bing.com/ck/a?!&&p=8ebe0eb069a85739JmltdHM9MTcxNjk0MDgwMCZpZ3VpZD0zYzY1MDgzNi1lOWUwLTY0OGQtMzMyYi0xYjQ1ZThjZDY1MjYmaW5zaWQ9NTIxNg&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=3c650836-e9e0-648d-332b-1b45e8cd6526&psq=%e3%82%aa%e3%83%bc%e3%83%ab1%e3%81%ae%e8%90%bd%e3%81%a1%e3%81%93%e3%81%bc%e3%82%8c+%e6%95%99%e5%b8%ab%e3%81%ab%e3%81%aa%e3%82%8b&u=a1aHR0cHM6Ly93d3cuYW1hem9uLmNvLmpwLyVFMyU4MiVBQSVFMyU4MyVCQyVFMyU4MyVBQjElRTMlODElQUUlRTglOTAlQkQlRTMlODElQTElRTMlODElOTMlRTMlODElQkMlRTMlODIlOEMlRTMlODAlODElRTYlOTUlOTklRTUlQjglQUIlRTMlODElQUIlRTMlODElQUElRTMlODIlOEItJUU4JUE3JTkyJUU1JUI3JTlEJUU2JTk2JTg3JUU1JUJBJUFCLSVFNSVBRSVBRSVFNiU5QyVBQy0lRTUlQkIlQjYlRTYlOTglQTUvZHAvNDA0Mzk0MzAzMg&ntb=1

 

安心に至ったところで、話していきたいと思います。

 

僕の感想は、この人はトラウマや臆病さから学習できなかった、両親を失ったという経済的な収入を失ったなど大きな影響を受けて一般的に落ちこぼれになったという印象でした。

 

やはり、最初から安定した生活では頑張ろうというようなハングリー精神みたいなものは強烈な憧れがない限り特段に努力ができるものではない気がしますので、この宮本延春さんは強烈な憧れを持つことができた結果、有名国立大学に合格できたんだろうと思います。

 

常軌を逸したような頑張りが窺えたので、自分もこうなりたいなと安直ながら思いました。

 

なぜ人が憧れを持つのかはその箇所以外を無視できるからだと思います。

 

とんでもない努力量を鑑みれば相当であると思いますが、その背景を知らなければ簡単にあこがれの対象になってしますのです。

 

僕は簡単にその背景を知らずに憧れることは、僕はあまり好きではありません。

その行為を感情のチーティングと呼んでいます。

 

簡単に憧れる、感動できるものはなんだかその過程を飛ばしているような感じがしてしまいます。

 

ですので、僕はすごい人を見るとその人の半生がとても気になります。

 

結局、人から見てすごいから本になっているので多くの人がこの人と同じようには多分なれません。

何が言いたいかというと、本を読んだらそこから学んだことを実行しないとあまり意味がないんじゃないかなと僕は思いますね。

 

個人の感想は他者への押し付けにはならないので思ったことを書きますが、多くの人はただ仕事をして死んでいきます。

多くの人に存在を知られることなく死んでいきます。

 

それでいいじゃないかなと思います。

 

知られないということにもメリットがあるわけです、例えば誰でもという意味で使用できる、紹介した本の中でも出てきた言葉で「ユビキタス」という言葉があります。

 

これを調べてみます。

 

ラテン語で偏在するやあらゆるところに同時に存在するという意味からコンピュータでネットワークをいつでもどこでも使用できるという意味で使用されるユビキタス社会というものがあります。

 

いつでもどこでも他人が自分のことを認識しているなんて気持ちが悪いと思いませんか?

イケメンや美女が自分のことをよく思ってくれることを嫌がる人は少ないと思いますが世の中そういう容姿に優れた人間ばかりでないことをみんな知っていると思います。

 

容姿で人を判断することは悪いと思われがちですが、面接であれば同じ才能、能力だと思われる場合には容姿が優れたほうを採用するのが一般的です。

 

つまり、容姿が優れないということは社会的に損をすることが多く、性格がねじ曲がっている可能性があります。

 

そんな人たちから認識されるとどうなるかは容易に想像がつくと思います。

 

知られないことも立派な防衛術だと思いますのであまり目立たないでくださいね。

いくらお金があっても死ねばすべて無意味ですから。

 

 

 

デジタル機器の人間支配

人間が生きるために必要な電気も何もかもインフラも購買もデジタル機器を使用して管理されている。

 

これは人間のゆとりをなくす。

 

便利になったじゃないですか?

と言われそうだが、必要なことがそこには必ず存在した。

 

新たに自由な時間をデジタル機器により創出できたとして何割の人間がしたいことに時間を充てられるだろうか?

 

結局、デジタルになったところは新たな仕事が生まれてその空いた穴に埋められる。

 

そうなると、人とのふれあいや会話がデジタルに置き換わる。

 

このことにより、便利になったと思ったが、そのつかの間さみしさが余計に増える。

 

DVDを借りに行く時間や、ご飯を夜にドライブを兼ねて買いに行く時間。

そんな大切な時間が奴隷労働によって取って代わられてしまう。

お金じゃ変えない大切な時間だったと思います。

 

セックスもAVを見て満足してしまったりして恋愛をすることを避けてしまう人が多くなってしまい人口が減り自分たちが大変な思いをする。

 

機械は富めるものをさらに富ませるが、貧しきものをさらに貧しくさせるものであることを僕は知っている。

 

デジタル機器が子どもの教育にまで侵食してしまっている、どんな副作用があるかも知らない役人が流行りと利権のために利用してしまう。

そして、そのことについて考える力を持たないなんでも検索してしまう検索人間が事の真偽すら考えずに鵜呑みにしてしまうようなことが増えているだろう。

 

この、デジタル依存が迎える先は認知症、~型認知症罹患者が増加することは目に見えている。

 

どれだけ必要のない時間にスマホをいじってしまい本来しないといけないことに時間を割けないでいるか、そんな心当たりはないだろうか?

 

僕のここ一週間のスマホ使用時間は1日10分未満である。

これは、そうしようとして変えたのである。

 

意志による行動決定はなかなか難しいことを知っているので習慣化させることをいつも念頭に置いて考えている。

 

例えば、スマホであれば最低限の連絡など以外は触れない場所、物理的な距離をとっている。

 

こういうことができる人は多くはないだろう、誘惑というものは抑えようとすればかえって強力な反発を生む。

 

人間の特性や性質を理解することで、習慣化はそんなに難しいことではない。

 

デジタル機器依存が及ぼす影響はかなり大きく激しいものであるから一人ひとりが考えて行動しなければならない。

面倒なことも必要だと割り切って行わなければならない。

 

飯くらい最低限自分で買いに行け。

 

僕はそう思う。

金と引き換えにした命の理由

人はこれぐらい働いたら死んでしまう可能性があるという指標を持っている。

 

そういう指標は科学的な根拠と共に決定されなければならない。

そして、変更される場合は悪意がそこにないことを確実に確認しなけれないけない。

こういうことは大抵時がかなり経過したときに問題になるので責任者というのは政治同様に存在しない。

 

そうして、8時間以上は働いてはいけないと決められたはずなのになぜか過労死する人間が未だにいる。

その理由は例外を作るからである。

8時間以上労働をさせる場合には、法定の罰金を支払うようにと決まっている。

罰金なのだ。

してはいけない、させてはいけないことなのだ。

 

パーキンソンの法則にこうある、仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する。

 

つまり、8時間が最低限であって実際にはそれ以上の時間が必要になる業務量を与えるというケースが存在している。

これは、とても恐ろしいことなのである。

 

どういうことか詳細にここに記す。

 

①人間は金銭のために他人を過労死させることができる。

②人間が過労死するタイミングは誰も知ることができない。

③人はあまりにも自分を大事にしていない。

④国や政府は守ってはくれない。

 

以上のことから、人間は自分を大事にできないからこそ過労死が可能になっていると考えられる。

 

では、限界というものはどうしたらわかるのかについて考えてみよう。

例えば、先ほども話した過労死するタイミングを誰も知らないという話だが、これは何時間働けばその通りにぱったり死ぬということがなく、かろうじて動いているから大丈夫という何ともお粗末なものであるからあてにはならない。

 

過労死のほかにも精神衰弱などで自ら死んでしまうことも近年はよく注目されている。

 

過労死までの状態を細かく記していく。

 

①睡眠時間の減少

②栄養不足

③自身の考えが変化する。←ここら辺で他人の助けなしでは手遅れになる。

うつ病になり休職または退職、働き続けるかは身内や友達次第。

⑤ここからは我慢の連続で次第に自我が失われていく。

 

以上のフェーズを踏まえて人は過労による死亡に至る。

 

家族や友人がいて、尚且つ日常的にコミュニケーションを行っていれば助けてくれると思います。

 

自分が死ぬということは労働の最たる理由である、生計を立てるために金銭を得るというものがありますが死んでしまうと意味がありません。

 

ではなぜ、死んでしまうようなことになってしまうのか、それは洗脳です。

 

働く場所がここしかないや、お金が無くなると死んでしまうといった情報の少なさに起因するもので人は死にます。

 

僕は仕事をいくつも転々としていますが、病死や事故死以外で死ぬと思ったことはありません。

 

仕事は単なる時代の通過点でしかないのです、今は必須と思い込んでいる人もいるかもしれませんが実際に何百万人と働いていませんし、子どもや老人を含めると何千万人にも達すると思います。

 

このことから、過労死してしまう人は何かしらの思い込みや仕事を特別視しているのではと思います。

 

ぎりぎり死んでいないだけで死にそうな人は今まで何人も見てきましたが、仕事が好きな人や自分が居ないとだめだと思い込んでいる人ばかりでした。

 

これは、批判ではなく事実そうだと確信しています。

 

選択肢を多く持つために日ごろから学習を行うことや、余暇を他人と過ごすなどといった脳内を風通しのよい状態にして凝り固まった考え方は見直さないと死ぬ可能性があります。

 

あなたが死んでも世界中の人が悲しむわけでもありませんが、大切な家族が深い悲しみに暮れてしまうのは嫌だと思います。

ですので、働きすぎることや睡眠不足はやめにしましょう。

 

この世は狂っています、少なくとも子どものころに教えられていた世界とはまるで異なります。地獄だといっても過言ではありません。

 

そんな地獄で唯一天国に行けるのは思考の自在化だけです。

多くの考え方を身につけましょう。

 

日常と呼んでも差し支えないほどに費やす仕事では、その環境にある考え方に影響されます。ですので、その考えがおかしいと思ったのであればメモに残すことです。

初心を忘れないことです。

 

変な奴だと思われても変なことをしている人が多いとそれが普通と呼ばれます。

 

自分を信じてください。

 

この国は数十年前までは喜んで死ねと教えていたのですから。

 

己の敗北

僕は今、目標を持って生きている。

 

そしてその目標は、とても大きな頑張りを必要とする。

他人との競争ではなく、自身との戦いだということだ。

 

そして本日、僕は敗北した。

 

眠たかったから寝たのである。

これがどういうことかというと、単に眠たければ仮眠をしてみればいい話で多くの睡眠をとる必要はない場面であった。

 

まあいっかと思ってしまったのである。

 

このことを悔いることがあっても決してそこから改善しなければただのパフォーマンスでしかなく、見ている人もいないのに自分に嘘をついているのだ。

 

これが非常に悲しく、愚かであると思わざるを得ない。

 

ここから、PDCAサイクルを回そうと思う。

 

眠たいときは、午後の20時から23時に眠気を感じた場合であればそのまま就寝してもよいと思う。

しかし、これが土日のような休みであればしっかりと8時間寝たのであれば外に出てしまおうと思う。雨の日であれば、面倒ではあるが徒歩で図書館にでも行こうと思う。

 

限られた時間の制約の中でいかに健康を害すことなく時間を確保するかが今後重要視されるであろう。

 

この積み重ねにより僕は僕自身に感謝する時が多分訪れるだろう。

 

本日の敗北は認めるとして、人生に敗北はないと信じている。

 

知りたいと感じることができる、自分を大事にしていこう。

一日の歩幅

あらゆる偉業も技術も一日の積み重ねで誕生している。

 

つまり、一日を疎かにするとおそらく自身が期待するような大きな事な成すのはなかなかに厳しいだろう。

 

では、どうすればいいのか?

 

真似ることでしょう。

 

僕自身何か大きな事を成そうとしているわけではない。

ですので、共通する要素として積み重ねを行うことによりいつの間にか成功しているかもしれない。

 

僕は、自分の脳を信じ切れていない。

だから、幼いころから頑張るということができなかった。

20代後半になってからやっと頑張ろうと思えることができた。

 

そのきっかけは、本を一冊読み終えたことだった。

 

この経験が指し示すこととは、自分が無理だと思ったことを成していく、これに限ります。

 

できると思っていることはできて当然ですから、不可能だと思っていることを行うことによりできるんじゃないかということを増やしていくことが大切だと思います。

 

お前には出来ないよと父親に言われたことがあります。

 

ここで、できないのか僕にはとは思いませんでした。

どうして、できないといわれるのかにはいくつかの理由があると思います。

嫉妬、軽視、不足感などいくつかの理由はあると思いますが、否定することで燃え上がることを理解している人は百歩譲って有りとしますが僕はそうではありませんでしたからとても不愉快でした。

 

ですので、僕は周りにこういうことをしたいんだという披露はしないほうがいいと思います。

会社でしたら妬みや嫉妬を買う可能性があります。

 

自分ができると思うのであったらやればいいだけなのです。

 

絶対的な肯定者は親でも友達でもなく自分なのです。

 

一日の歩幅はいづれ、世界を一周するでしょう。

 

あなたが自分を大切にしていたらほぼほぼのことはできます。

 

そういった一例をここに示していきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

自分が死ぬんだと自覚したこと

僕は自分が死ぬだなんて信じられなかった。

悠久の時を生きられるということを信じていたわけじゃない。

しかし、本当に自分というものを表すこの知覚している意識が失われるなんて実感がずっとなかった。

 

知識としては、自由意志が脳からの信号を拒否することができる0.2秒であったりするのが人間の自由意志と呼ばれる唯一の今現在存在する研究結果だとかは知っている。

そして、生きるということは死ぬこととセットであることも知っている、人間の言葉の定義によるのだから当然だろう。

 

ではなぜ僕が死んでしまうという強烈な実感を得たのかを話そうと思う。

これは決して希死念慮であったり死ぬことを推奨するものではないことを理解していただきたい。

 

僕が気付いたきっかけはいわゆる、「老化」である。

 

何を当たりまえなことをと思うかもしれない。

でもこの気づきは僕の人生の中でとても大きな転換期だと思う。

 

夏が近づいてきたこともあり、薄着で生活していたのですが僕は男なので金玉ぶくろがあります、その金玉袋にしみが出来ていたのです。

 

まだ若いと思う年齢であるはずが老いの象徴ともいえるシミが発生していた。

途端に地面に足から重力を受けた体全身にぬかるみに足を取られた時のような不快感と共に暗黒という言葉では表せないような黒々とした空間が僕を包んだ。

 

ああ、僕は死ぬんだなと思った瞬間、したいことをしとかないと老化で死ぬということは死ぬ前にボケるかもしれないし病死するかもしれないという知識としてはあったが実感、クオリアをそこでやっと得たのだ。

 

僕が感じたことをこれからも発信するのでよかったら見ていただきたい。

 

いつか、死ぬということはそんなに悪くないかもしれない。