Kの独白 日常ジャーナル

気付いた僕のこれから

罹患後の気質について

いろいろな病がありますが、治療できるものだといいのですが完治後もその病は見える形で残ることもあります。

 

健康な人はどういう人なのか僕にはわかりません。

病気にならないことなのか健康的な肌をした人なのか一日に死にたいと思うことがない人なのかわかりません。

 

しかし、僕にはわかることが一つあります。

 

僕は幼いころ、喘息でした。

喘息は気道の炎症で呼吸がしにくく、運動を行うことが難しいものでした。

 

そのため、運動をすることが苦手でした。

学校に行くことも休むにつれ行きにくくなってしまいました。

僕の家庭環境はとても複雑で、親に病気の理解がない為にタバコや動物といったアレルギーなどの喘息に悪影響を及ぼすことを平気で環境に持ち込む人でした。

 

今になってはわかりますが、とてもじゃないが人が生きることに適した生活空間とはかけ離れたものでした。

 

そのため、僕は学習習慣が身につかずとても苦労をしました。

 

その上に、親からの遺伝でアトピー性皮膚炎がありましたので尚のこと学校に行くことはとても億劫でした。

 

死にたいと思ったのは小学5年生くらいでした。

その頃は宇宙のことを考えることで逃避していた気がします。

 

親からは、肥満気味になったことで豚やデブ、肌が奇麗ではないことでとてもコンプレックスに思っていましたので長袖の服をよく着ていました。

暑いのに変な奴だとか、家から出ないのでそのせいで肌が汚いのだと一番僕の気持ちがわかるはずの父親が僕の一番の敵でした。

それでも、心の底からは嫌いになれませんでした。

多分、本能的なものでそういう風にできているのだと思いました。

 

中学二年生の時に全身に発疹のようなものが出来、肌がただれて人に見せられるものではなかったのでさらに不登校気味になりました。

 

不思議とその頃は死にたいとは思いませんでした。

 

それはアニメがあったからです。

あの頃に僕を支えてくれていたのは確かにアニメでした。

 

家では、兄に馬鹿にされ殴られていたので家にもいたくありませんでした。

 

家の近くにある祖母の家によく行っていました。

 

幸い、遊んでくれる人たちがいたので幸せでした。

 

そういった過去がありますが、大人になったのだから自己責任であるといった発言をする人間はある種の健康により理解力を持つことが出来なかったんだろうと考えています。

 

罹患した後、完治することはない心の傷があるのです。

 

いつか僕も同じような心無いことを子どもに言うことがあるかもしれませんが、不断に思い出しそのようなことがないようにしたいと思います。

 

皆が、優しい世界を望んでいます。

学習がつまらなくなった理由

最近、いやずっと昔から学ぶことが楽しくなかった時が続いている。

 

どうしてつまらないのか本日はっきりと理解したので書こうと思います。

 

あまりにも未来のことで今していることの意味が分からないまま行っているから、そしてどういうメリットがあるのかどうして目指しているのかがぼんやりと曖昧模糊としている。

 

つまり、必要なことは明確に目標を立て、目的意識を持ちどういう未来を描いているのかを想像して今していることがそこに向かっているという感覚が必要なのではないだろうか。

 

目指すものがあまりにも先の未来である場合、きっちりとした準備が必要なのです。

 

模試や、テスト、進捗、学友との会話、欲しい未来を考える。

 

そうでないと道に迷ってしまいかねないのです。

 

そして、受かることばかりでなく今していることの面白さを考えていることが大事だと思います。

 

理解度を測ることも重要ですね。

 

楽しむことが大事だと思います。

 

今を生きるというのはそういうことだと思います。

 

ああ、楽しかったなと思って眠り、受験日が楽しみでたまらないような状態が最善ですね。

 

そのためには、不必要なことを除くことが大事になりますので、身の回りの煩わしいことは早めに終わらせましょう。

 

子どもの頃って、思い付きで遊ぼうとしたり寝たければ寝ていました。

それって、今を生きていますよね。

大人がそれをしたら、無計画だとか馬鹿にされる対象になると思います。

 

僕は、気負うのをやめて毎日楽しもうと思いました。

落ちてもいい、でも落ちないように頑張るのも大切です

 

命をかけるなんて僕に限ればバカみたいなことだと思います。

 

どうせ死ぬんだから、楽しく暮らしてやろうと思います。

 

僕は僕の監視者ではない、庇護者でもない。

 

僕は同一の一つである。言葉や文字の勘違いを起こしてはいけない。

 

思考は言葉で行われるので、決して勘違いしてはいけない。

 

 

奇麗な紙を買えなかった

僕は今日、ダイソーに行った。

 

欲しいものなどなかったが外に出るきっかけになればと思い自宅から6km離れたとところにある店舗に訪れた。

 

いろいろ見ているとあってもいいなと思うものを買い物かごに入れた。

 

手紙の紙やいろいろな用紙があるところに奇麗な何とも形容しがたい奇麗な正方形の紙が売ってあったのを見て奇麗だという言葉の前に美しすぎてなんとも言えない気持ちになった。

 

その紙は税込み110円でもちろん買うのは容易い、しかしこんなに奇麗なものをただ家に何にも活用しないまま置いてくのはもったいないと思った。

 

だから、買えなかった。

 

美しい女の人を見ても自分には扱えないと思って誰も告白しないようなあの感じかもしれないと思った。

 

僕は、自分の思想で可能性を捨てたんだなと思った。

 

多分、気づかないうちにそういうことをしているんだろうなと、なんだかすごく悲しくなった。

 

いつか、ただ眺めるだけでもいいと買える日が来るといいなと思った。

ブログ開始から19日が経過した

ブログをしようと思ったきっかけは、僕が考えていることを残したいと思ったからだ。

 

閲覧されることは限りなく少ないが、残すことはかなっているので良しとしよう。

 

継続できる人は限られているらしいので続けようと思うができるだけ思ってもないことを書いてまで連続させなくていいと思うので、気軽に行いたい。

Youtube 自分の放送局

文字は少々賢い人や時間のある人しか見ることがあまりないので僕の肥大した自己表現欲求が抑えきれないので動画という画像と音を使った動画で表現したいと思う次第である。

 

どういう内容にするかはやはり、自分のことだろう。

よくわからない流行りを真似たものは楽しくないのでとりあえず過激かもしれないが表現しようと思う。

 

僕は生きてきた数十余年で会話したことがあるものや書籍等で得た言い回しで特別感激したこともない。

 

しかし、比較せずともわかることが一つある。

それは、僕の考えはとても図りしえないものがあるということだ。

 

なんと、不遜なのだと思うかもしれない、それは僕を知らないのだ。

知らないから言える言葉なのだ。

 

結局は難解な言葉を簡単に言い表せると興をそがれてしまうようにここれへんで仕舞いにするが、理解される数ではないということを示そう。

 

1億でも登録者がいればすごいと思いますか?

その1億人が偏差値35でも、IQ85でも?

 

数しか見ていないことがわかるでしょう。

 

人間のすごさは局所的なもので完璧なものなどない。

 

つまり、動画の良さを自分で測れないことを認め、数に従ったのだ。

 

数の奴隷である。

 

もちろん、話題としての利用価値は存在する。

 

僕はあるがままが価値なので動画にしようとした瞬間に価値を失うかもしれない。

 

それでも、仕方ないのだ。とても生きたい、故に知られたいのだ。

 

狂人に目を付けられ殺された女やストーキング被害にあった男のようになる可能性はある。

 

それでも、僕は絵や文などでも活躍したいと思っているが時間は限りがあるのでそうもいかない。

 

選んでつかみ取る。

 

とりあえず、100人という数にすがる。

 

応援していただければ、何よりの幸福です。

 

 

 

 

我慢という呪いについて

我慢は皆さんしていますか?

 

僕は、あまり我慢というものをしません。

 

嫌であれば放棄してしまいます。それでいいと思っています。

 

我慢というものは、したらいいというものでもなく他人からはその人が我慢しているかなんてわかりません。

 

何が言いたいのかというと、我慢は呪いなのです。

 

そうして我慢をするんでしょうか?我慢をすればするだけ何かもらえるんでしょうか?

そういう風に教えられてきたんでしょうか?

 

違いますよね、怒られたり嫌われないように耐えているんですよね。

 

どうして嫌われるのが嫌なんでしょうか?

 

そういう風に人間はできているんだと思います。

人間が感じることすべてはその生物の能力によるものです。

 

嫌だなーと思えることはどう考えても回避するための能力です。

逃げろと体からのシグナルなのです。

 

我慢はそういったシグナルでしょうか?

 

少し嫌なことがあったので耐えたというのは美談かもしれませんが、少しというのは感覚であり他者からすればかなりつらいことかもしれません。

 

我慢をするということは他人もこれくらいなら大丈夫であろうという指標にもなりかねません。

 

相手が言われたら死ぬほど嫌なことかもしれないことを言ってしまうかもしれません。

 

我慢というのは呪いなのです。

 

全ての人が我慢をしなくなればこの世界は終わります。

国という概念がまず機能しなくなります。

その世界では我慢どころか殺されかねません。

 

では、我慢をしないといけないのかという問題になりますが、しないといけません。

 

おかしいじゃないかと思う人もあるとは思いますが、この我慢という呪いはフォーカスすると発動するのです。

 

しんどすぎて自分は我慢をしている、耐えているんだという認識がさらに苦痛を呼び寄せます。

 

普段、私は我慢をしているという認識を大きく持っている時点で精神疾患があるのではと思います。

 

それは我慢してはいけません。休んでください。

 

この世界ははっきり言って、一部の人間がその人たちがいかに楽をして人間をこき使い楽しむかというものになっています。

 

残念ながら、その構図は壊してもまた出来上がります。

 

そんな欲ばかりの獣は放っておいて自分の人生を見つめてください。

 

1週間の内、8時間も働いているとおかしくもなります。

どれだけ技術が進歩しても労働時間が変わらないのであればおざなりでいいんです。

 

呪いはいつか死に至るので、まさに人生みたいですが楽しくぱーっと生きましょう。

 

 

 

孤独の光

光は全く孤独ではない。

 

人間は孤独を他なものに移すので、擬人法のような方法で生きているように表現することがある。

 

光が一つであれば、一つだけというのか一つだからいいというのかでは違う。

 

光は頭上にある光のみではない、人が点けた電灯やスマホの光も光だ。

 

あるマンションには夜に一か所だけ光が灯る。

 

一つだけというのはおかしな話ではあるが、ここでは気にしないでいただきたい。

 

彼女は苦悩している。

 

容姿端麗で声は誰もが心地よくなるようなものである。

 

あの光は彼女の孤独を表している。

 

彼女の光が消える時、やっと解放されるのだ。

 

相反するのその関係が美しくてどうしようもない。

 

これが醜女であれば、美談にはならないのだ。

 

人は残酷であると同時に、美に対する執着は際限ないものなのだと知った。