Kの独白 日常ジャーナル

気付いた僕のこれから

ダイエット企画①

ダイエットってホントは過度の肥満でない限り必要ないんです。

 

でも、僕はランニングが好きなので痩せます。

 

172cmで78kgなのでかなりデブです。

現在、4.5kmを1kmあたり4分55秒くらいで走ります。

 

見てくれがよくなることはもちろん普通にデブはしんどいですからね、痩せましょう。

 

とりあえず、食事は3回で朝はヨーグルトで昼は普通に食います、そして夜は野菜中心で肉をたまに食べます。

そして、歩いたり走ったり自転車をこいだり、登山をしたりします。

 

これで来年には60㎏くらいになっていると思います。

 

経過は追って報告します。

信じられるか

何かを始めるにはその対象を出来る、行える自分を信じているということになります。

出来なかっても開始時点では信じていたのです。

 

自分を信じないと継続はできないですし、始めることさえ困難です。

 

ではどうしたら信じられるのかは、幼少期にまで遡り話をします。

 

~はよくできて偉いわね、など褒められたりして自身を肯定してくれた人が周りに多いと自分はできると思えたり挑戦して失敗しても大丈夫だという心のよりどころが形成されるみたいです。

 

とはいえ、褒められなくとも否定されようとも出来る人はいます。

もうこれは運というか個体差としか言いようがありません。

 

だって、脳が信号を送るんですから感覚、僕たちの意識はそのあとになりますので自由意志の存在すら怪しいものです。

 

ですが、環境を変えることにより信じられるようにすることもできます。

むしろ、人間の自由意志のなさを逆手に取るのです。

 

僕たちにはなんでもはできないが出来ることはできる、世界が眼前におびただしいほど存在しています。

 

どれを選ぶか、どれを信じるか、どこに属するか。

 

自分を信じて、選んでみてください。

 

自由意志はないんじゃないのかと思われる方も、そんなことを気にしてもどうしようもないのでとりあえずやりたいことを考えてみて実行してください。

僕を知るには

僕のことを知る人は多くありません。

しかし、僕のことを知るというのは経歴や見た目、資格などでしょう。

内的な思考は別に知られることは必要ではないかもしれない。

 

ですが僕を知ることは僕には必要です。

僕は僕の扱い方はを知らないといけないのです。

人を不快にしてしまうことがりますし、自分でも極力健康的な精神で生きたいのです。

 

僕は言葉を用いて思考をします。

ですので語彙を増やすことは対人ではなくともあれば助かるものなのです。

それは決して衒学的なものではなく僕のためなのです。

 

必死に生きようとしています。

 

過去を振り返ったときに集約出来ない、要約出来ない濃い内容の人生を欲しています。

学習は情報を脳に入れる行為と引き出す行為、応用する行為は単調です。

 

しかし、そんなことはしたことがないのでこれから開始します。

 

単調なのか知りたい。

 

時間は有限、確実に有限なのです。

有言実行にて節約するのです。

実感を、クオリアを得るのです。

 

必要になるものは記録媒体です。

ノート、コピー用紙、タブレット端末です。

あとは、筆記用具です。

 

自分を知るには行動に対する変化、行動を知ることです。

これはアイパッドにて管理します。

 

学習進捗、範囲、復習間隔、時間管理など行います。

そして、結果はこのブログで発表します。

 

『有言実行』

 

そして、僕の人生の根幹を支える言葉である

 

『調べ尽くす』

 

に恥じない行動を行います。

 

明日から始めます。同時にプロジェクトがあります。

 

①学習

②ダイエット&筋トレ&ランニング

③動画作成 Youtube 

です。

 

行動一覧やその時の心境なども動画にしたいと思います。

 

適切に管理すれば何でもできると思っています。

 

だって生まれてから学校や仕事で嫌でもしてきたんですから。

 

僕を知るために行動するのです。

 

応援してください。

 

 

好きなことで生きれるのであれば

僕は自転車や徒歩で外出することが好きです。

 

もしそれで生活できる程の金銭を得ることが出来ればいいなと思います。

 

youtubeにはその力があると思いますので試験的に開始しようと思います。

身バレは別に気にしていません。

 

誰かが言っていました、もし自分のことをずっと思ってくれる存在があれば生きていけると。僕はそんな存在になりたいのです。

 

誰かがどこかでずっと移動しているだけですが、お遍路も同じようなものだと思います。

 

四国では外国人がよく遍路をしているのをよく見ました。

 

僕にはまともな仕事はできません。

 

 

絶望と再起

僕は多分病気です。

 

死にそうなほどに内側から感覚が外に出たがっているようだ。

 

しかしこういう状態は長くは続くことがないことを知っているので散歩に出かけました。

 

夜の一時ですが出かけます、パトカーもありますが反射材とライトを持っていると身元確認されません。

 

再起なんて言葉を使うのは間隔的に短いので変ですが、僕の場合は再起という漢字があっています。

 

こんな感じで日常を発信します。

恐怖の正体について

怖い、恐ろしいと思うことはだれしも経験をしたことがあるだろう。

 

怖いというのは危害がありそうであったり何か嫌なことが起こるという気持ちや不思議なことが起こるのではという正体不明であったりするものが多くを占めていると思う。

 

つまりそのもの、対象を知れば恐怖は取り除かれる可能性が大いにあり得る。

勿論、生理的な高所であったり刃物というものに対する外傷的な恐怖は痛みであるから取り除くことはできない。

 

知ればいいのだと僕は結論付けた。

 

しかしながら知るといっても深ければ深いほど未知は増大するもので底が知れない。

人類自体が到達していない情報もある。

 

ということは初心者は何も恐れることはないのだ、恐れを発生させるところにまで行くには膨大な時間と努力が必須だからである。

 

とはいえ、人間には恒常性と呼ばれる行動パターンを繰り返すことを気に入る脳の性質があるので新しいことを取り入れようとすると拒否反応を示すのだ。

拒否反応をなくすには習慣化させるほかない、その間は恐怖と対峙することになる。

 

最近では、このホメオスタシス(恒常性)が注目されており、サーカディアンリズム(概日リズム)もその一つだとされている。

 

そうして恐怖の正体を理解すれば解決できるのだ。

 

人間は都合よく生物なのでこういった地味な作業であらゆる可能性が発見される。

 

知らないことはもったいないのだ。その気持ちを持つ人は日本にはたくさんいるだろう。

 

知ること、『すべて知り尽くしてやる』といった感情が大切なのだ。

そして、本に載っていないことを発見して後世に残す。

その積み重ねで僕たちはこんなにも裕福で便利な世の中に存在することが出来ている。

 

調べ尽くす、これには途方もなく膨大な時間が必要になる上に、必ずできるや必ず分かる、矛盾するかもしれないがわからなくてもどうにかなるという気楽さも同時に必要になる。生真面目すぎると精神を病むことが多く報告されているからだ。

その一例として、医者は過労死しやすいというイメージが多くの人にあるだろう。

 

自分という人間への尊敬の念が重要になってくる、出来ないと思っていることをする人間はいない。これは言い換えれば、少しでも六法全書を開いたことのある人間は法律家を目指そうと思ったことがあるといっても過言ではない。出来るとそう思ったのだ。

 

積み重ねるには多くの時間、自分との戦いが始まる。

出来ないんじゃないか、自分は劣っているんじゃないかと自分を軽んじることがあるはずだろうからその時はこう思い返してほしい、調べ尽くしてやると。

そうすれば、分からないことなんてないのだから不安になる必要はない。

 

学習は必ず釣れる釣りのようなものだ、恐ろしく単調で面白みがない。

だから、あえて難しい問題に取り組んでしまう。

この必ずというのは行ったものにしかわからない。

 

人生は、自分が主人公なのだ。

どれだけ自分と他者を比較しても君は自分を死ぬまで生きるのだ、生かすのだ。

誰だけぶさいくでも背が低くても君は君なのだ。出来ることをしよう。

君にしかできないことはただ一つ、親になることだ。

それは自分を育てることも然り、子どもを育てることも然り、他人を育てることも然り。

 

理由は要らない、ただ行動するんだ。

必ず、他者が見ていて評価をしてくれる。

魅力的な評価でなくても君は一人なんかじゃないんだ。

空気を共有している、お金を共有している、法律を共有している、人生を共有している、僕たちは一人ではない。

 

恐怖は知らないことなんだ、見えないことなんだ、暗闇なんだ。

 

知識という光で暗闇に光を差し込もう。

 

僕らはしたくないと思う時、その行為の重要性を理解している。

だから、したくないのだ。苦しいのだ。

 

僕は、今怖がっている。

 

しかし、光を求めていつ落ちるかもしれない暗闇を手探りで歩いている、そしてその足はとても力強く地面を踏みきっている。

時間の喪失を許容しないといけない

人は生きるために奪うことをやめ、殺すことをやめ手を取り合った。

 

自分一人ではすぐに怪我や暴力に獣に襲われるなどで死んでしまうだろう。

 

そのため、多くの時間を費やし生存してきた。

 

では今はどうだろう1日8時間以上を労働に費やしている。

これは適正でしょうか?

 

僕はそうは思いませんが大半の人はその方が幸せだと思います。

暇は時として争いを生みます。

 

対比をする対象が狩猟採集時代と現代ではあまりにも恣意的かもしれませんが、8時間働けば死ぬことはないのです。

 

しかし、狩猟採集はしんどいことばかりではなかったと思いますので、現代はあまりにも異様な負荷があると思います。

 

喧嘩すら許容されないのです。

 

僕はくだらない労働に辟易としています、なぜならあまりある財で効率化できるのにしないからです。

人は人を支配するのが大好きなのでしょう。

 

僕は、今後楽しく生きるにはかなりの数の気に入らないことを許容しないといけないのです。

 

大きなもので言えば、時間、政治です。

 

許容できるだろうか。

 

出来なかった時は人から離れ、獣として生きよう。