Kの独白 日常ジャーナル

気付いた僕のこれから

自身を観察対象として考察してみた

僕はあまりいい環境で育っていません。

 

それは多分過去の記事を見ればわかると思います。

 

考察の結果、生育環境が著しく悪く、その結果は精神的なストレスから病気を患っている可能性が高いです。

 

これは自身の至らなさを病のせいにしているわけでは断じてありません。

これからお話しする内容を見れば、理解してくれると思います。

それでは、長くなるかもしれませんが見てください。これは自分自身の考えを綴るジャーナルなので観測者を必要としませんが、誰かの役に立てる内容かもしれません。

 

①私が居住していたところの環境は所謂団地でした。

賢い子もいたが多くは学習など頭にない子どもばかりでした。そのため環境として悪いと言えます。

そして、私には兄弟がいますがその兄弟が学習をしているところを見たことがありませんでした。

私にとって、学習はしなくていいもの、むしろしているとからかわれました。

そして、私は肌が弱くアトピー性皮膚炎を患っていたので父親が買ってきた犬がアレルゲンとなり痒くてたまりませんでした。

その上、気管支喘息もありましたので父親の喫煙は肉体的にも精神的にも私を大事に思っていないことの表れに感じてとても辛かったのです。

劣悪且つ、人間が住んでいい環境でないような家で学習に対して意欲を持つことはありませんでした。

家の近くに同じ団地ですが父親の親、私にとっての祖母が住んでいました。

そこは家からの逃避先であり、私に危害を加えない祖母は私の心のよりどころでした。

これもまたよくないことの一つでもありました。

 

②登校拒否について

 

私は不登校気味の生徒、または園児でした。

 

幼稚園に通っていた私は、登園することが嫌でした。

行く意味が分からなかったのです。行けばそれなりに楽しく遊んでいたようですが家で兄弟にいじめられていた私はとても周りの環境、つまり友人関係を操作しようとするお山の大将のような暴君気質になったいました。

 

兄弟は遊びの延長線上で私に暴力をふるうことがよくありましたので祖母の家に行くことが多く、逃げていました。

 

子どもが成長するのに適していない環境でした。

 

牛乳が苦手だった私は給食で出される牛乳が飲みたくなくて園外に逃亡することもありました。とにかく、人と触れ合うのが嫌だったのかもしれません。

 

③いじめ

 

私が小学三年生の頃の担任の先生が家庭訪問を行うことがありました。

勿論毎年ありましたが、この頃からでした。

~君はもしかして「いじめ」られていませんか?と先生が母親に言ったのです。

僕はいじめられていることを自覚していました、乱暴な性格は成長につれ人間関係に対して消極的になり穏やかというよりは内に秘め自分を押し殺し笑うことが出来なくなっていました。

 

母親はあんたいじめられてるの?と言ってきましたが僕は(一人称が変わることがあります)え、僕いじめられていたの?なんて言って気づいていないふりをしました。

母親はそうよね、そんな敏感な子どもじゃないよね的なことを言っていたのを今でも覚えています。

そのエピソードに近いことがありました。

それはストレスという言葉を初めてテレビの何か報道番組のようなもので紹介していた時に、ストレスって何?と聞くとあんたには一生縁のない話よ的なことを言われました。本当は、そのストレスの意味を知っていました。

今思えば、SOSだったのかもしれません。

 

その頃はすでに気管支喘息アトピーで運動が出来ない状態でしたので不登校気味になりました、その後改善は少しされましたがさぼり癖が付いたのはそのためでした。

 

④匂い

 

私は父親が買ってきた犬が同時に2匹と、その前に1匹いました。

 

父親は性格破綻者でしたので世話などしませんでした。

こんな父親でも心底嫌いになることが出来なかったので親というものは子にとって絶対者なのだなと思いました。

もしかすると、僕は人を愛することなど出来なくて、嫌うことすらできない人に無関心な壊れた人間になったのかもしれません。いつも、こういう時はこういう反応をしないといけないのだと考えて動いていました。

いつも何かにおびえていました。

一人が好きな理由は傷つかなくて済むからで本当はとても寂しく、いつも祖母といました。祖母は多分50前には母や父に寄生していたので何かしらの理由があったのでしょう。そのことが理解できたのは高校生になってからで、母がなぜか祖母に物言いがきつかったりするのでとてもストレスを感じていました。

母に対して母親という感覚は今もなく、母親なんだなとそういう実感の伴わないが認識としては帳尻合わせをしているようなものです。

ですので私は、一時期女性に母性を求めていました。とても虚しかったです。

 

匂いと題したのは犬の匂いがとても服に染み込んでいたこと、スニーカーを洗うことが少なかったことなどで揶揄われたことがありました。そこでも私は歪みました。

何を言われても気にしなくなったのです。

 

これは、中学生のころまで続きます。

 

中学生の頃には、清潔感のない人間として周りの認識が統一されていました。

不登校で、たまに給食だけ食べにくる臭い奴を好きになる人間などいません。

 

好意的に接してくれる女の子はいましたが、理由がわからず傷つけてしまったことが何度かありました。

 

小学生の頃のことを知っている人は継続して私のことを嫌い、周りの人間にもそうなるように吹聴していました。そこでああこういうものなのかと思ったものです。

 

学習面では一切自学学習などしなかったのですが、地頭はよかったのでどうにか平均点くらいは取ることが出来ましたがいかんせん、数学だけは出来ませんでした。公式の存在すら知らないので周りの人間が天才に見えるというよりは僕は馬鹿なのだとそこで強烈な劣等感を覚えました。

 

中学二年の時に不登校は更に極まりました。

 

理由は、アトピー性皮膚炎の悪化でした。

ある朝起きると、頬が赤くなり点々が出来ていました。

母に相談すると一人で病院に行けと言われましたが、その頃の僕は一人で行けるような人間ではありませんでしたので行けませんでした。

その次の日、全身が赤く腫れあがり頭には発疹が出来、顔はただれケロイドのようになりほぼ全身見るも無残な体になっていました。

 

その時、だから行けと言っただろうと両親に言われた場面が今でも強烈に残っています。

その後、病院に連れて行ってもらいましたがやぶ医者にあたり何も改善されませんでした。別の病院に行き、ステロイド剤を塗ったりしましたが今でもその頃からずっと皮膚に何らかの疾患が残っています。

 

よく自殺しなかったなと思います。

 

その時から地獄が始まったのです。

 

⑤地獄

 

肌はいつも白い丘疹のような出来物が常態的に存在し、顔を見られたくないと思い始めました。そのため、いつもマスクをしていました。

これはあまり皮膚にはよくないことですので本来はしないほうがよかったのです。

 

周囲の人間からは、ここでは学生ですね。

「マスクマン」と揶揄われていましたがほぼほぼ不感になっていた私は気にしないようになっていました。おそらく脳が拒絶していたのでしょう。家から出ることも極端に減り祖母の家に登校したと見せかけて言っていました。さすがに祖母も嫌がるようになりその時は地獄というのがふさわしい環境でした。

一番の救いはスマホが普及し始めたことです。

 

その頃には手元にあったお金をもとに母に交渉してスマホを買い与えてもらいました。

そのおかげでアニメを見れるようになり、ほぼアニメや映画を見ていました。それが中学三年生くらいでした。

 

中学二年生の時に皮膚に異変が生じて不登校になり、7時間目とかに登校してましたので先生からも社長出勤かと言われました。

これが一番闇が深いなと思うことですが、誰もなぜ不登校になったのか一度も聴かなかったのです。一度もです。誰も僕のことなんて興味がなかったのです。

 

最初はTSUTAYAで自分の財産の限り、1本旧作が50円とかでしたので何本も借りてps2で鑑賞していました。

一番心に残っているのは、ショーンコネリーの「小説家を見つけたら」です。間違っていたらすみません。

この映画のワンシーンになぜ詰問したのかと問い詰めるところがありましてそこがとても好きでした。

他にも、ザ・フライポリスアカデミーバタリアン、など多分その頃の日本の学生で一番映画を見ていたと思います。

 

不登校であることは親が許すことがありませんでした、ある日外を見ていると父親が祖母の家に来るのが見えたので僕はベッドの下に隠れました。

殴られるのが分かりきっていたからです。

言葉が通じるような相手ではなかったのです。

これはここ最近の話ですが、親は高校生の時に離婚しました、父は新たな伴侶を得て50を超えて新たな子を儲けました。その子は地獄確定でしょうね。人は変わりません。ですので遊ぶだけ遊んだら放置され学びも与えられずにアタッチメント障害にでもなるでしょう。

 

僕にとって、この中学二年生という時期は生き地獄でした。同級生には馬鹿にされ学業では強烈な劣等感を覚え、居場所はなく、どうしようもなくなった僕の頭は白髪でいっぱいでした。

 

本当になぜ自殺しなかったのか謎です。選択肢に死ぬということが無かったのか、よくわかりません。もしかすると、映画が僕を救ってくれたのかもしれません。

 

⑥好きな人ができた

 

中学二年生の頃に、地獄と呼んでいた時期に気になる女の子が出来ました。

 

性格も何も知らないのに好きということは多分、ひとめぼれだったと思います。

その子の顔には、大きなほくろのような痣がありましてなぜ切除しないのかなと思ったのが意識し始めたきっかけでした。

 

他にもその子のことを好きな人がいたので美形だったんだと思います。

目が合うだけで、今でも覚えていますが落雷が落ちてきてあったかのような胸の高鳴り、鼓動が人生で一番早かった気がします。

そのため、今でも夢に出てきます。その子からしたら怖いですよね。

その子とは連絡を取ることが出来て、遊ぼうと思えば遊べたと思いますがなぜか怖くなったんです。人間関係リセット癖ってあると思いますが、わざと嫌われるようなことを言ったりした覚えがあります。

 

⑦嘲笑と揶揄

 

僕は人を馬鹿にすることで、蔑むことで自分を保っていました。

そんなことをする人間が好かれるわけもなく、同窓会にも誘われることはありませんでした。

とにかく馬鹿にしていました。口撃することで優位だと錯覚するためだったのか何のためかわかりません。周りが怖かったのかもしれません。

周りの人間を自分より下等であると嘲笑することで生きようとしていたのかもしれませんね。

 

⑧受験

 

僕は高卒です。高校卒業が最終学歴です。

世間からすれば、馬鹿ですよね。

ですが、僕からすればこれでもよく頑張ったというか奇跡だと思っています。

大学生になりたいとは思ってはいませんでした、なぜなら学習が嫌いだったからです。強いられることで学ぶなど嫌だったのです。

しかし、今になっては理解できますが大学はモラトリアムとしてと、本気で学びたい人が行く大学の2種類があると思います。失礼かもしれませんが、そう思います。

 

高校の評定は平均4.4あったので大学には高校二年生の時に行きたいと一応親に言いましたが無理と言われました。その頃の僕は、借金をしてまで行きたくはないと思っていた上に、なぜか働く気は一切なく働かなくていいと思っていました。

あとは、いづれ自殺すると思っていました。

しかし、今は生きています。

 

先生の質が低い底辺高校でしたので、誰も何も教えてはくれませんでした。

これも、やはり私が悪いのでしょうか。

 

この学生時代にできた友人とは今でも関係があるほど仲がいいです。

 

⑨就職

 

就職を選ばざるを得ない状況でしたので、求人を見ていました。

月給の欄だけを見て、一番高いところを選びました。

誰もが知るとまでは言いませんが名の通った企業でした。

先生全員から名前で選んだでしょうと言われました。

 

進学校ではないので、就職実績だけを重視していたのでしょう。

落ちるから暗に他を受けろとばかりの言いようでした。僕はこういうところには頑固な性格なので、譲りませんでした。就職試験の前日までうどん屋を受けないかや試験を受けるのをやめないかという先生までいました。論外ですよね。

 

結果、受かりました。私のいた高校からは私が初めて受かったのでとても喜ばれました。信じていたとか言われましたが人は、他人は本当に信用ならないものです。

 

その4年後に退職したのでざまあみろと思いますね。

退職理由は、コロナが原因といえば原因でした。

正義感が強い私は、コロナによる感染防止のためにあまり接触したり距離をとれという旨が記載された資料が掲示された次週位に会長が名誉市民に選ばれたので400人ほど集めてお祝いをするという旨が記載された資料がその紙の横に掲示されたのです。

 

その時、私の中の何かが壊れました。

 

ああ、私の命などこいつの機嫌取りのために失うかもしれないのだなと、コロナの危険性があまり知られていない不確かな状態でしたので警戒していました。

 

私の命を支える労働という幻想と支配されていることがそこで実感として得られたわけです。僕は、家畜と変わらないということです。

 

働き出して体重が64㎏から89㎏まで増えました。

明らかに精神的な不調をきたしているといえます。

 

⑩休職

 

言葉の通じない上司との衝突により不眠症になった私は休職することになりました。

3時間くらいしか寝れなかったのです。

異常だなと思ったのは。5日くらい風呂に入らずに職場に行っていました。

その頃は自分で考えることが出来ずに行かないといけないと思い込んでいました。

助けてくれる人が一人もいないことを知っていたからです。

ここで初めて死のうと思いました。

 

ビニールひもを編んで寮の掛けられるところにかけてまるで罪人のように絞首刑されるような感じで縊死しようとしたのです。

 

しかし、体重が重すぎたせいで千切れたのです。多分その時は80㎏くらいでした。顔がすごく熱くなり目玉が飛び出すかと思いました。

 

頑丈な紐で行っていたら今は存在しなかったでしょう。

 

そして、2020年に実家、この実家というのは母方の祖父の家です。

 

実家にて、毎年お盆の時期に焼き肉を食べるという催しがありまして、それを最後に死のうと決心したのですが雨で中止になり、機会を逃した僕は精神的に死に体だけは生きているという状態でしたからとても惨く、しんどくて辛かったです。

 

それから今年2024年まで生きながらえていますがほぼ毎日、死にたいと思っております。

 

この期間の内、転職を3回行いました。

 

そしてその職場でも謂れのない言いがかりでパワハラを受けて現在も休職しています。

 

一度壊れた精神はもとには戻りません。僕は自分がどんなものだったのか把握できていないのでそもそも壊れたのかさえ分かりません。

もともとおかしかったのかもしれません。

 

⑪IQテスト WAIS3 

私は人と話していて話が理解されないことがよくあり、集中力もないように感じていたので何かの病気ではないかと思い、メンタルクリニックにてIQテストを受けました。

 

結果は、全検査IQが105でした。

4つ項目がありまして、言語関係が2つ、他は非言語でした。

1つは129、110、84、100くらいでした、この日は頭痛がすごく脳内で計算が出来ずに84というのはそういう関係のテスト内容でしたのでとても低いのはそのためです。

しかし、これが僕の一部です。

 

賢くないのです。診断結果はADHDと特定不明の神経障害でした。

 

まあ、受けたら診断が出るものなのかなと思いますのであまり気にしていません。集中力がないのはスマホばかりいじったり集中の仕方を知らなかっただけでした。

 

単に話が合わないのは僕が相手と話す気がない上に分かりやすく伝えようとしていなかっただけでした。

 

⑫労働について

 

私は労働が嫌いだ。

 

理由はいくつかあるが、日本は発展をこれ以上しないように政策を施されている。

その事実を知っている以上、頑張っても賃金は上がらないどころか下がることを知っている。5割以上を給与からとられるのになぜ頑張ろうと思うのだろうか。

奴隷でしかない。

 

なぜ発展しないかについては過去の記事で書いた、財政健全化目標のせいに尽きる。

 

お金が必要な業界、分野はこれからますます恣意的に強制的に財源不足を理由に増税し、衰退を強いられる。

 

断言できるが、これは事実だ。

 

日本人が飢えて得をするのは他国しかない。売国行為、日本の資産や土地はどんどん切り売り売りされるだろう。

とても悲しいことだ。

私が独り身であるならばとっくにクーデターを起こしていただろう。

(これは仮定であり、意志の表れではない)

そして、必要なところと虚業が分類されていないところにも疑問を呈する。

こればかりは個人的な感情なのでこれ以上は別の記事にて書くことにする。

 

⑬これが一番の思考ポイント、メサイアコンプレックスなのかどうかについて

 

事実を言っても意味がない、改善されない、採用されないと人は表現や発言をしなくなる。

例として、パチンコ屋の換金方法である。

三店方式などですね。言っても相手にされないどころか仲間である国民に馬鹿にされかねませんよね。

 

他にも、統一教会のツボ議員、世襲議員、裏金議員。

 

言っても無視ですよね。

 

これらを行うものを断罪してそいつらに代わり政治を行いいい世界にしようと思うのは、メサイアコンプレックスですかね。

 

それとも、まっとうな感情ですかね?

 

でも、学歴や自信の裏打ちになるものがないと多分、国民の一部は馬鹿にするでしょう。まあ、そういう存在はなんというか、子どもなんですね。

 

そして、必要だと思ったらいきなり動けますか?

 

いつ行動に移してもいいことがおきるんでしょうか?

 

老人が運転するのを放置している自民党がありますが、自分の最愛の人を轢死されたらキレるんですか?誰に?老人に?自民党員に?投票をした国民に?

いいや、違いますね。

 

一番楽な自分自身にキレるんですよ。そうして自殺して問題はなかったことになるんです。

 

ですので、ニーメラーの文のように今動かないと見方なんて気狂いしか集まりませんよ。

 

殺す以外で解決できることは遠に解決されています。

解決されていないことは必ずそのことで利益を享受している存在が政府関係者や地方議員の周りにいます。ですので下手に刺激すると人は簡単に金のために人を殺めてしまいますよ。

 

僕はこのことを考えると、いつも恐ろしくて逃げてしまいます。

今の僕は生を肯定しているんです。

少しですが、前進しています。このブログも1か月以上継続できていますし、読んでいただけています。

 

救いたいものが増えれば行動するに値する閾値が下がるかもしれません。

 

⑭夢ならぬ、目標

 

同じような過去に呪われている、行動に支障をきたしている人が確実に存在していると思う。

まずは僕は僕の課題を解決してから、そういった人の手助けが出来るようにしたい。平日は仕事があると思うので土日などで対応したいと考えている、それが出来る資質を備え、安全に責任を持ち行いたい。

 

それとは別に、雷が好きなのです。

 

雷の自然、原理を知らないと超常的な力と思いかねないような雄大というか、とにかくハッとさせられるのが好きなのです。操りたい!

と思ったので、第三種電気主任技術者試験、通称電験三種を取得することが今年、来年の目標です。

あとは、他に電工一種の技能が11月にあるのと9月に基本情報技術者試験、8月に電験三種の試験があるので学習を進めないといけないのに、自分を蔑む自身の中の何かを存在として確認したのです。

 

それが今回の自身を観察対象として考察してみたということになります。

 

あまりに馬鹿にされすぎて、人生を投げ出した過ぎて未来を前提に動く自分とのイメージの乖離が原因で気持ち悪くなってしまったことで学習を中止したくなったのです。

 

だって6割くらい最終的に衰退させるために、子どもを減少させるためにお金を奪われるなら頑張りたくなくなるの当たり前じゃないですか?

 

そこに対して、けりをつけないと前には進めないことが分かったので今回考えてみたのです。

 

そして、最終。

 

⑮最終、どうすればいくつかの過去のしがらみを解決して、納得して前に進むことが出来るのかを考える。そして言語化して、実行する。

 

とりあえず、自己侮蔑をしないようにカウンセリングを受ける。自分ではそうしようもないことかもしれないのでとりあえず出来ることはしようと思います。

 

自分に自信や本来の意味での価値を持てるのであれば死にたいなんて思わないでしょう。うつ病の可能性を検証するため受診する。

 

馬鹿とはどういうことなのか言葉を適切に使用する。

比較を行わない、比較を行う際はきちんとあいまいなところが無いように不断に検証する。

あそびを持たせる。要は、張り詰めないこと、気負いすぎないこと。

ストレス発散方法と、ストレス度合いを客観的に判断できるようにする。毎日の出来事や気分の上下を視認しやすくする。

睡眠時間の書き出しと、体調管理。

就寝時間と起床時間の固定化。これも書き出す。

栄養を考えた食事管理、これも遊びを持たせる。

上記を守ることで精神的なバランスをとる。

 

友人が近くにいないため、交友関係を作り、間隔的に交流する。

 

見た目に気を使い他人に気にされるであろう点をなくすことで適切なコミュニケーションを学ぶことで杞憂をなくす。

 

嫌なことは嫌だということや、書き出して解決することに慣れる。

我慢しすぎない、いい子を演じない。

 

これらはしみついたものであるから過度に気にしない。

 

これが出来たら悩んでなどいないのだろうが。

 

現在26歳、30歳までに自営業に移行しようと思う。

必要なことを書き出して用意する。

 

仕事が楽しいということは可能だと思う、人生とは労働であるといえるほどに多くの時間を割く。であれば、望んだ形で行いたい。

 

許容する心の余裕を持ちたい。

 

生物であるという事実と、可能なことは継続すれば大体できることを定期的に実感を得る行動を起こす。

 

要は、死ぬまでどう生きたいかを形にしていくことであるからそこを理解していないと迷う、彷徨うので指針を得る。

 

毎日同じことをするとしんどいからどうしようか、ここが大変だ。

 

ここからが重要になる。

 

最終と書いたが、結局面白いかどうかなのだ。

 

①楽しめる、眠れることの当たり前を支える

 

旅行を楽しめるか、わだかまりはないか。

眠れるか、眠る前に明日を望んでいるか。

 

これが、僕にとってすべてなのだ。

 

9120文字、よく書いたと思う。

とりあえず

僕の人生はこんなものだ。

何なら、もう終わりでもいい気がしてくるくらいには書き終えた。

 

すっきりしている。僕は、いったい何を望んでいるんだろう。

 

まだ、生きていることは期待しているんだろうこの世界と僕自身に。

 

ここで、ハッとした。

 

僕は、僕に期待をしている。何をするんだ、何が出来るんだ。

何かをするには確実に継続が必要になる、このブログを始めたときはとりあえずPCを身近にいつでも書けるようにお気に入り欄に登録をした。

こういう地味な工夫が大きなものを生み出すのかもしれない。

書き始めて既に三時間は経過している。

 

意図せずに継続できている、三時間もだ。

これは、才能といえるであろう。気づくことなのかもしれない。

もしかすれば、すでに内に才能があり日常でそれが発現しているのかもしれない。

これは、大きな気付きだ。

 

最近感心したことがある、老年のおばあさんが図書館の職員の方に話しかけているところを聴いていたら、すらすらとお互い短い中で、けれど話の内容はすぐに終わるもので短時間でお互い話し終えコミュニケーションを終えていた。

達人であった。そういう評価をする大会など知りはしないが、あれは達人といっていいほどの熟練した技術であった。

聴き入ってしまった自分は、感動していた。

無価値だと思っていた談話は、私自身が孤独になることで光を放ち余りの眩さでくらくらしてしまうほどの夏にぴったりの光景であった。

 

私は、素直にああいった行為をしたいと思い、本日に図書カードを作っていただき2冊の本を借りた。

しかし、達人のように話すのは急には無理であったが、とても意味のある行動をとれたことが嬉しかった。

 

僕自身は結構、人が好きなのだがあまりに過去に人をもとにしたトラブルが相次いだせいで人嫌いだと錯覚してしまっていたがそうではないことが最近では認めることが出来つつある。

人という共通点ばかりはなく、個人を、固有名詞を持つお互いとしてこれからは相手の話に耳を傾けて何のためにでもなく、敵意はないのだと示すためにも下らないと過去に一蹴してしまったものを取り戻し行おうと思う。

 

僕は一人ではない。助けられることが他人からないとしても感謝などされないとしても僕だけは誰かを助ける。

それが、人間代表としての、人間に、自分に、対しての期待を。

決して、惨いだけの存在でないと、僕は思いたいのだ。

行動からしか思えないのだから。

 

100の言葉より1つの行動を。これを理念に生きる。

 

僕を救ってくれている無自覚な優しき人々よ、挨拶をしてくれている人々よ、涙があふれることを決して恥とは思わない僕を形作る力を言葉をどうかください。

 

生まれたことを、生きてきたこれまでを肯定、いや何も考えず眠れるように僕はただなりたい。

 

いつかそうなれた時、この文を読み、よかった。

 

僕頑張ったよと、愛すべき人たちに抱擁を行い、ありがとうと言いたい。

 

ずっと続くように何も憂うことなく晴れた日の空の下で、今日も暑いな、でもそれがいいんだな、来年の夏もこうだといいな、なんて思える日を。

 

僕は待望している。

 

───最後に───

 

ここまで読んでくれる方が一人でもいることを心からは信じられませんが、今の僕には出来ませんが、もし読んでくれた方がいましたら感謝を伝えたいので、出来ればコメントを残してくださると、とても嬉しいです。

 

本当にありがとうございました。