Kの独白 日常ジャーナル

気付いた僕のこれから

したいことはしよう

幼いころ目指したことがありますか?

 

僕は多分ありませんでした。

 

多分なかった理由は、自分が大人になり働くということが考えられなかったからだと思います。

 

したいことはその時の考えであり、生ものなのです。

 

したいと思ったときにしないといけないのです。

 

食べたいものがあればその時食べなければいけないのです。

 

行きたいところがあれば行かないといけないのです。

 

人生は短いといわれますが、それは多分わかりません。

 

分かるまで挑戦しよう。

 

出来ると思い込もう。誰も言ってはくれないのだから。

自分だけでも信じよう。

 

明日死ぬかもわからない世界ではあるから、したい事はしよう。

 

その時大事なあなたが望んだ大切な感情なのだから。

鼻毛カッターを購入

鼻毛カッターを購入しました。

 

その動機は、先日人と会う用事がありましてそこで指摘されてしまったんですね。

 

ああこれは、面倒だなと思って変に意地を張らずに鼻毛カッターAmazonで購入しましてさっき使用したんですけど、なんだか気持ちいいですね。

 

中に回転部があって金属の剃毛部とは脱着できるようになっていて毛を剃るのにそんなにトルクは要らないんだなって知れてよかったです。

 

とりあえずやってみるというのがなんだか最近は楽しみになってきました。

孤独との向き合い方について

人間は正常な環境にいれば孤独感をあまりフォーカスして考えることはないと思います。

 

しかし、過度に人との触れ合いが行えない環境であったり過度なストレスがあると孤独感が増してしまい異常行動をとる原因の一つになってしまいます。

 

スマホ等もその一因になってしまいます。

 

孤独、人間は人と触れ合うものの基本的に一人で生きてます。

それが、常時、人が周りにいないと孤独感に苛まれてしまうということが起こりえます。

 

孤独感はあって当たり前ではありますが常時それについて思考をするようになると病的かもしれません。

 

どんな人間も基本的には孤独にはなれません。

 

生きているということは人間が生産したものを買うという行為や消費を通して必ず触れ合いが発生しているものなのです。

 

ですので、過度に孤独感が強い場合は何かしら身の回りに異常がないか確認してみてください。

 

栄養や睡眠が十分に充足しているか確認してみてください。

 

社会人と呼ばれる狂気ともいえるほどに労働に時間を費やしている人たちは常識というものにとらわれている傾向があると思っています。

 

その常識はすべてにおいてではなく限られた範囲で日常的に適用されるそこだけで有効な考え方だと思います。

 

ですので、8時間以上労働に時間を費やしていると仕事場での人間関係を気にしなくてはいけなくなるのは当然ですよね。

 

それは、決していいことではなく時として命を放棄してしまうこともいとわない地獄のような環境を人は作り出します。

 

ですので仕事場での人間関係は希薄でいいのです。

そのほかで人間関係を構築したほうが有意義だと思います。

 

仕事場ではできるだけ友好的に相手は極力我慢をして接してくれるので人間的に成長を促されることが多くはありません。

 

社外で交友関係は構築しましょう。

 

そんな時間さえない方は、ツイッターでいいと思うかもしれませんが人間の構造上、それを個人として認識することは難しく、直接会うことが少ないといい関係を構築するのは結構難しいと考えます。

 

孤独は体に毒だと思います。

 

ですので、できるだけ人とかかわるようにしたいものです。

学習と釣りの類似点からの考察

皆様は多分、日本人で義務教育を修了していると思いますので学習を行う上でわからないかもしれないという恐怖感のようなものを体験したことがあると思います。

 

それに似たことが釣りにも存在します。

 

釣りというのは主に海釣りを仮定して話しますが、大海原で尚且つ丘と呼ばれるような波止場や防波堤での釣りを指す場所で釣りをすることがあります。

 

そうなると、かなり大きな海で限られた数十メートルから数メートルの距離をラインと呼ばれるナイロン製やPEラインと呼ばれる編み込みがされた(詳しくは調べてみてください)糸を使用して釣りを行います。

 

魚は活性と呼ばれる、食欲の波があり、それは朝や夕方のような太陽の昇降や潮の満ち引きによって変化する食い時があります。

 

その時間を狙って主に釣行することが多いです。

 

ですので、釣れない時間というのが確実に存在します。

釣行に行く回数が増えると釣果が増えるというものでもありません。

 

僕が好きなのはジギングと呼ばれる、メタルジグという金属でできた疑似餌を用いて大型の青物を釣る釣り方になります。

 

重量は竿やリール(糸を巻く機械)にもよりますが、40から60グラムが使用されます。

者によっては100グラムより上のものが使用されます。

 

そのメタルジグを使用して、海に対して投げて釣るのです。

 

限られた時間でどれだけ投げてアクションをするかになるのでかなり体力を消費します。好きな人は仕事前にも釣りに行くので釣りバカなどと揶揄されますがかなりすごいことです。

僕の場合は、朝の4時に起きて1時間かけて釣りに行ってました。

 

この釣りは、釣れるかが全く分からずに尚且つ場所も決められていないので自分で情報を集めて選定して考え、眠い目をこすりながら向かうのです。

 

釣り場に向かい、準備を行い何度か練習で海にジグを竿を振って投げ入れます。

 

深さを確認してジグが着底したらアクションを行います。

 

このアクションを行うことで魚にアピールを行って、食わせるのです。

 

ちなみに僕の人生で一番興奮をしたのは多分、試験の合否発表かこのジギングで魚が釣れた時のどちらかです。

 

それぐらいに興奮を引き起こす行為なのです。

 

なぜそんなに興奮するのかですが、釣れるかもわからないところにわずか10センチ程度の金属を細い糸につけて引いたりするだけで魚が釣れるのです。

 

これは人間の想像力をかなり引き立たせます。

 

いま、どこら辺の層にジグがあってどんな動きをして魚はいるだろうか、追いかけてきているだろうかなど妄想しながら必死に不断に竿を動かし続け、リールを巻き続けるのです。

 

何度もなんども。

 

この釣れてくれと願う行為がどれだけ美しいでしょうか。

今、この文章を書きながら泣きそうになっています。

 

ほぼ、祈りなのです。修行僧のような高潔でもあります。

 

自分との戦いなのです。

 

釣れなければ反省をして、場所を変えアクションの仕方を変えてまた挑むのです。

 

これは、学習に共通していると思います。

 

学べば必ず受かるものではないですし、会得できるわけでもありません。

 

それでも、あきらめずに毎日机に向かって出来るようになるかもわからないのにやり続ける。

まさに、釣り人なのです。

この不安感と戦い続けた人にだけ、成果は現れます。

 

釣りなんてどこが学びなんだよと思う人もいるかもしれませんが、釣り場までの経路や漁業権の有無に釣り方であるアクションや投げ方。

ラインの結び方に仕掛けの作り方、釣れた後の血抜きの仕方や神経の締め方に魚のさばき方。

 

これらは学びです。

 

したいことがあり、それを学ぶことに優劣や難易度など全く関係しません。

そんなことを言う人がいればそういうことを注意されなかっかかわいそうな人なので放っておきましょう。

 

好きなことやしたいことにできるかどうかなど関係ないのです。

 

とりあえず、やる。これしかありません。

 

悩む時間がもったいないのです。

 

僕の場合は、釣りでしたが学習はかなりわかりやすく仕方が研究されています。

 

多分、ある程度までであれば知能に問題がない限りなんでもでいるでしょう。

 

釣りは魚がいないとどれだけ学んで、技術や道具をいいものにしても釣れません。

そして、魚がいないかどうかを確認する術がありません。(船釣りを除く)

 

全ての道具は、他人の学習によって生み出されています。

 

例えば、ラインの引っ張り強度が必要な値までなければ断線してしまい使い物になりません。

リールのトルク値が必要なだけなければ、大きな魚が釣れても釣り上げることが出来ません。

 

すべて、必要とするものは他人のおかげで存在します。

 

僕も、どこかの分野でそういった貢献がしたいのです。

 

もし、コンドームがなければ避妊が出来ずに望まれない妊娠が多発してしまうでしょうし、性感染症が蔓延するでしょう。

 

そんな風に、必ず正規の方法で求められる働きをしていれば必ず感謝されます。

 

釣りと学習の切り口からこのように考えることが出来ました。

 

問題があるとすれば、釣りにおいてはロスト(仕掛けを失う)により海底にゴミが蓄積してしまうことが懸念点になります。

 

これらも技術力で解決していきたいですが、金にならないことはみんなしようとしたがりませんのでどうにか気づいた人が行わないといけない気がします。

 

世界中の人がそんな余裕を持てる技術が出来ればいいなと妄想しております。

 

本日も新たな妄想ができることに感謝をしていきたいと思います。

 

ありがとうございました。

 

気分的な私について

僕は感傷的になると、一人称が私になります。

 

そういう心象的な形態により内なるものがペルソナのような形で言葉に変化をもたらします。

 

はっきりって、考えすぎることは不幸です。

 

これは、不幸について話し合わなければいけないものではなく、不幸だといえます。

 

ごく少数の現象や定義によってある例外を除けば、不幸だといえるのです。

 

私にとっても、僕にとっても思考がやはり多いときは精神的な異常の時ですし、他人がどうかはわかりませんが、多弁もそのきらいがあります。

 

僕にとって得意なことが僕に幸福をもたらすわけではなく、苦手な不得手なことがもしかすると幸福をもたらすかもしれません。

その時は、お金がないとその不幸が幸福を上回るかもしれません。

 

どうか、そこはきちんと考えないといけないよと自分にいつも言い聞かせています。

 

僕は、多分わかりきった世界、自分が住む土地やできることを考えた結果、僕は幸せを時々得られて、かなりの頻度で不幸せになります。

 

いつの日か、それに耐えかねて死にたいと思うことが出てくるかもしれませんが、それは死にたいわけではなく幸せが欲しいと心の底から渇望し、得られないことをどうしようもなく理解してしまった頭との相談により仕方なく死にたいというのでしょう。

 

あなたは何よりも誰よりも自分に関して理解している。

 

くだらない動画も映画も音楽もなにもかも一時的にそのことを忘れさせてくれるものでしかなかった。

 

たくさんの産業や趣味で得意なことがある人がいるでしょうし、その人たちは周りから賞賛されるでしょう。

 

あなたは自分に誰よりも詳しくなれるように考えつくし、すべての時間で自分について考え、これ以上はそうしようもなくそうしないとおかしくなる、自分はそうしないといけないと思いこんだ、思い込むことにより行ったのでしょう。

 

戦争や歌や絵画や盗みや子育てや祭りや相談や踊りのそのすべてが自分との理解を深めた結果、そうしたんでしょう?

 

きっと僕もそうする、言葉ではない、定まることはない、必ずそうしてします。

その様に、人は名づけを行う。

 

分かってしまった結果、色で言えば白い、空白のまわりを自分の皮が収めている。

 

時間で死か、結果としての死か、因果の原因に当たる自分との決意、理解。

そんなものは、どうだっていい。

 

いうなればこれは、気分なのだ。

 

そうなるように出来ていた、ワタシというものが合致する雌雄のような必然をもって。

 

考える必要などなく、気づいたら終わっていた。

気付く間もなく、終わった。

 

それでいい、考えによって起こさせるものではない。

 

自由な浮遊した私がきっと内にある。

 

そういう性質を持ち、生まれたのだ。

安物買いの銭失い回避

Amazonでよく買い物をします。

 

学習上で必要な動画学習を行うために激安タブレットを購入して1週間程度使用しましたが、wi-fiに接続できなくなってしまいました。

 

それと、なぜが動画が白っぽくなるのです。

 

そのためやはりiPadを購入することにしました。

 

安物買いの銭失いにならないように皆さんは気を付けてくださいね。

都市の地を踏む足

なんとなく、詩を歌いたくなった。

 

私の足が地を踏む

 

何も知らない足が私の求むる地へわたしを運ぶ

 

私はその足がどこに向かうかを知らずに

 

何も考えずにただひたすらに地を踏みつける

どうしようもない怒りを

 

悲しみに濡れる頬をその歩幅が流してくれる

 

この地の行く先は知れずとも

 

この小さな体と大きな意識を載せた船がゆっくりとただ他人からは何も歩まぬただの人と知れる

 

強大な高温の熱い解けた岩石をいつか踏む岩の大地を

 

その時、ワタシだったものを大地と呼んでくれるだろうか

 

大きな耳に地響きがつんざいた